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他人と比較しない

eguyan
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つい他人と比べて落ち込んでしまうこと、ありませんか?
私は子どもの頃からずっと“比べられる側”でした。
でも今では、人と比較しない生き方こそ、自分を大切にできる方法だと思っています。

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学校でいつも比べられていた子ども時代

小学生の頃、私はいつも近所の同級生――いわゆる幼馴染――と学校の成績を比べられていました。
親から「〇〇ちゃんはまた良い点数取ったみたいよ」と言われるたびに、胸がモヤモヤしたのを覚えています。

正直、だいたい全教科で負けていたと思います。
特に算数と理科では、絶望的な差がありました。

当時の学校は、多くが「相対評価」でした。
クラスの中で誰が上で誰が下かを決めるシステムなので、自然と「他人と比べる」ことが前提になります。
頑張ったかどうかより、「何位か」「誰より上か」が評価の基準になる。
いま思えば、その仕組み自体が、子どもたちに“比べるクセ”を植え付けていたように思います。

もちろん、「絶対評価」には努力のプロセスを見てくれる良さがありますが、それでも結局「この子はA、この子はB」とランク分けされる。
どちらにしても、“比べられる前提”はなかなか変わりません。

社会人になっても終わらなかった比較の連続

新卒で入った会社でも、比較の日々は続きました。
SEだったので同期(半数は理系)と仕事のレベルを比べられることはよくありました。
当時は西暦2000年問題の対応要員として文系卒でもSEとしての即戦力化に力を入れていた時代。
とはいえ、学校で情報技術を嗜んでた文系はわずか。
そんな環境下でしたが、自分の強みや成長よりも、「他人と比べてどこにいるか」で評価されることが多くありました。

当時の私は、それを受け入れるしかないと思っていました。
でも、内心ではずっとモヤモヤしていたし、正直しんどかったです。
その後別の会社でも、上司や重鎮的な高齢社員から、年の近い先輩後輩と比較されることはありました。
そういう時代・・・というか、そういう年代の人が上司だったりするのかもしれません。
現在は個人事業主という立場になり、そういった組織の中での“比較構造”からは離れました。
でも、「比べられてきた記憶」は少しトラウマではありました。

自分らしく働くために「比べない」を選んだ

人間は、モノじゃありません。
一人ひとりが違う価値観や背景を持ち、それぞれのペースで成長していくものです。
誰かと自分を比べて、どちらが上か下かを決めることに、そもそも意味はないと思います。

たとえ他人より優れていると評価されても、それで心が満たされたことはありませんでした。
「あなたは〇〇さんよりすごいね」と言われても、うれしくもありがたくも感じなかった。
だって、比較された時点で「自分らしさ」じゃなく、「他人との関係」でしか見られていないと感じてしまうからです。

もちろん、今の仕事でも内容や価格が他社と比較されることはあります。
同業他社の動きも、ある程度は意識しています。
でも、自分の軸をぶらさないように、あえて「比較しすぎない」ようにしています。
他人を気にしすぎると、自分らしさが失われ、判断がブレてしまうことがあるからです。

過去の私は、「比べられてどうせダメ」と思い込んでいました。
でも、今は少しずつでも「自分のペースで前に進めればいい」と思えるようになってきました。

誰かより遅くてもいい。誰かより少なくてもいい。
大切なのは、自分らしく働き、生きていくことではないかなと。

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EGUYAN
富山県富山市生まれ、埼玉県川越市育ち、現在も川越在住。 ワーケーションソリューション(Well is)代表 日本産業カウンセラー協会認定産業カウンセラー。 野球と旅とまいう〜と。がモットー。
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